昭和56年9月9日 朝のご理解
入力者 大坪れい
ご理解第81節を・・・。ご理解第81節。「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」
信心が、楽しゅう、しかも有り難く、ん~続けていかれるという、ん・・・生き方を合楽では聞いてもらっとるわけですが、ん・・・。嬉しゅうとか、楽しいとか、しかも愉快にまでなる道という、私はそういう道でなからなければ、やはり信心も、山坂を登るようなものと仰るのですから、それをいよいよ極めていくということが、できんのではなかろうか、出来にくいのではなかろうかと思います。それを私はいよいよ、完璧を目指して、そういう信心を続けていけれる楽しさと、喜ばしさというものが、その信心内容に、え~でけてこなきゃならんと同時に、そういう味合いも味合いながら進めて、え~いかなければならない。
合楽でいわれる、人間が人間らしゅう生きながらと、今まで過去宗教のイメージというものは、まぁ~、まぁいうならば、様々な荒れもない行と、教祖様はそう仰っておられますね。荒れもない行をしたり、とても常人では、常は者では真似もできないような修行にでも取り組まなければ、本当の信心というか、徳は受けられないという風に説かれておったのを、合楽では、誰でもその気になればと言ってるですもんね。誰も、誰でもその気になればと、教祖が仰る、ね、信心をすれば誰でも御神徳が受けられると仰る信心を、とてもそんな、誰でも御神徳を受けるということはできない、それは信心のいうなら内容を、自ら難しゅうしたり、喧しゅうしたりするところからできんのであって、合楽で言われる、いわゆる合楽理念に基けばできる。簡単、あ~信心を初めから先生はおらんと言われるように、段々それに近づいていくことができる、それが山であっても、く、もうくぼくりんというような、きつい、苦しい時でも、そこをまぁ、有り難い、有り難いで乗り越えていくことができると。ね、
え~先だっての、あ~先生の、あの講話のお話を聞いておっても、まぁ本当に段々信心の、まぁ最、何というでしょうかね、最高、まぁ信心の最高のおかげとでも言いましょうか、おかげを目指しての信心を進めていかれるのが、ん~そこには我情もありゃ、我欲もあるけれども、それが段々、こう高度化していっておるでしょう、ね。いうなば、小学校から中学ね、中学から高校、大学というように進んでおられるのを見て、はぁらも~血の涙の出るような思いをしたといったようなところがなかったでしょうが、ね。いわゆる我情を絡ませ、我欲を絡ませながらも、そこんところに、こう、次の信心へ次の信心へと、進んでいっておられるのですね。
私は今朝方から、まぁ~面白いといや~面白いお夢を頂いた。え~、私が何か大衆食堂のようなところでね、え~何か先生方が色々なこ~質疑に対して、私が応答しておるんです。それにその、合楽理念をまぁ、と、その説明しておるわけですけれども、ん~その先生、そのあなたは、人間が人間らしゅう生きていくということを説かれるですが、あ~こういうようなことは、どうお考えになりますか?というて、え~、夫婦の交ありのことの質問がでてきたんです。お粗末と思うたり、ご無礼と思うたり、まぁ汚らわしいというふうな頂方ではなくて、んなら合楽理念は、ここをどう説かれますか?という風に、その、まぁ質問に対して私が答えておるのです。それが面白い答えなんですよ。
先生、あの、しじゅうはっての裏表というじゃないですかと、ね、もう言うならば、十分いわば楽しむ技術も体得させてもろうて、ね、それこそ「神様頂きますという心」あらば、合楽ではそれを、お粗末でも、ご無礼とも言いませんよと。と、私がそこまで話した時に、隣りのテーブルでね、青年達が4、5人で食事をしておった。ところがその青年達が、「おっちゃん、あんた面白か話しをするの」ちゆうちから、向こんテーブルから、こっちのテーブルに移ってきたんです。まぁいうなら猥談のようなお話なんです。だからそれに、隣のテーブルの青年達が、私共の席さんやってきて、熱心に聞く、そこから話しおこされたのが、いわゆるね、宗教以前の宗教ということ。過去の宗教は、それはいかん、これはいかんということがいっぱいだったけれども、金光教は、宗教以前の宗教なんだから、人間が人間らしゅう姿に返っていくということなんだよ、というてあの~、御教えに、「これまでは」という、あの~御教えがありますよね、え~ね、これからはあ~、何事にも方位は言いまず、教えの昔に返れよという御教えがあります。その話しをさせて頂いた、いうならば段々、そういう話しから、段々金光教の信心の独自性を、ず~と説いておるのを、始めはその猥談のような話しの中から、段々はぁ~その、合楽でいわれる金光教の独自性というものが、なるほど宗教以前の宗教ですなー、なるほど人間が人間らしゅう頂いていくという、その手立てが講じられる限り、なるほどおかげが受けられるでしょう、お徳も受けられるでしょうというような話しになっていって、もういよいよ今度は、真、本当のんなら、というて、色んな信心のいうなら究極のところを、その~求められて、私がお話をしておるというところでございました。ね、
いうなら、過去の宗教観念とは違うところのスッキリとしたもの、お粗末でもないものをお粗末と思うたり、御無礼でもないものをご無礼と思う、いわゆる私共の歩かせて頂く道は、もういばらな道でも、小さい道でもない、もうそれこそ天地に通う大道と申しましょうか、大きなその道をね、せんだって、金光青年の記事を書かれる方達が、2人で、2日間ですか3日間か、ここに泊まりこみで、ここの記事を取ってかえられました。その中の川辺という方が、こちらに来る前に、御本部によらせてもらいました。そして帰りよりましたら、あ~本部教庁の、ん~布教部のなんか課長さんか何かというのが、ここへ来てから俺んとこ寄らんことがあるもんか、寄っていけと、まぁ心安い中でしょう、そして合楽に行っておる話しさして頂いて、合楽の話しがでた時に、その課長という先生が言われるのに、「俺はこの頃ね、合楽で言うとるとが、ほんなこっと思うごつなった」という話しが出たそうです。というのは、合楽であの、大坪先生がいうところの、「道という言葉に迷うことなかれ、道は教えを踏む他はない」これはもう、金光教の根本的なものになるもんだよと言われたという話しを、ここへ来て、私に話されました。
今まではもうとにかく、合楽は間違っとる、違っとる、なるほどそうでしょうね、今も申しますような話しをするもんですから、間違っとるように見えたり、聞こえたりすかもしれません。いうなら過去のイメージをアップするだけの内容を持っておるのが合楽理念です、ね。それをんなら、入口のところは今言うね、隣りで何も関係もない、食事に一緒に来ておった人が、私の話しに耳を傾ける、それが面白い話しだから耳を傾ける、それでいて通りにあった話しに段々入っていくもんですから、自然と、まぁ金光様の御信心ちゃ有り難いなぁということになる。教団でいわゆる、道を間違えておらんかと、合楽は道を間違えとるというふうに、まぁ色々と言われてもまいりましたが、昨日、夕食終わっとりましたら、ん~福岡の宮崎先生が見えられました。そしてこの頃から、ここにもあの~ずっと、偉い先生方が各教会を回られましたね、ここにも見えましたでしょ?何とか先生ちゆったな、ここに見えた先生は、(大渕先生)あ~大渕先生が見えて、あの~夏期信行が終わった日に、あちらの会堂で頂きました、あの選ばれて、(?)お話をしていかれるあの先生に選ばれなさった。そして、5つの教会かを、長崎県の方の田舎の方を回られたそうです。そしたらもう、長崎県では特に合楽の評判が悪ございましたち、行くとこ行くところで。それで私は合楽の話、ほとんど何処ででも、合楽の話しさせて頂きましたが、そうですか、そうですかと、大変合点して、あれだけの人が助かるというその、訳が分かったというて、まぁ喜んでもらいましたと。いうなら、合楽の示現活動をさせて頂いたという話しを昨日しておられました。ね、
ちょっと見や、間違っておるようなところがあるようですけれども、実際その神意というものが分かってまいりますと、いうなら合楽理念は素晴らしいだけではない、それこそ嬉しゅう、楽しゅう、人間が人間らしゅう生きながら、いうなら超えられない所も超えていけれる手立てが、説いてございますのですからね、それを実験実証していかないとです、ね、いうならば、いうなら(?)登っても、やれやれがでたり、油断が出たりして、それ、本当のおかげになっていかんということになる。今日は81節からね、今まで皆さんも聞いたことがなったようなお話をね、まぁ聞いてもらっ、お夢ん中から聞いて頂いたんですけれども、もちろん最近いわれる、人間が人間らしゅう生きる、全てのことに御の字をつけるということが、その御の字の内容がね、御教えに忠実であることと、人間私共の、我情我欲といったようなことにでも、んなら、それを自分に忠実であるということと、ね、教えを頂くということにも、忠実であるということになった時に、こうバランスがとれてくる。それが崩れる時にアンバランスになる。という御理解を、最近頂いておりますようにね、おかげを頂いて、こう信心が進んでいけば進んでいくほど、難か~し風に考えよるところがあるですね。
昨日、高橋さんが皆さんもご承知のように、熱心な信心をされよる、もう一事が万事に御神縁を頂いてのことですけれども、最近は、「もうそんくらいのことは、自分でお伺いをしなさい」ち、ね、( ? )のでける信心といわれるじゃないですか、そんなに一から十まで、なるほどお伺いしてすんなら、楽なことは楽なかろうばってん、それじゃ信心が進まん。ね、自分で一生懸命御祈念をさしてもろうて、それこそ神様と、お伺いができんにしても、( ? )しらん神様と交流するような心の中から、心で神様にお伺い、いわゆる勇気先生は、お尋ねをすると言うておられますもんね。お尋ねをする、心の中に右が良いぞ、左が良いぞというような感じがすると。ね、そういうけいこをさしてもらっていかんと、いつまで経っても、道のできる信心とは言えんばい。
昨日もあることのお届けをなさいますのに、これはどうもやっぱり神様のかけ引きのように思います。だからおかげとして頂くというわけですけれども、もう神様のそれを先通しするような考え方は間違いですよというて、まぁ申しましたことでした。信心がもう高橋さんところまで高度になってくると、神様の心の裏がちょっと覗かれるわけです。それが本当に覗いておりゃ良いけれども、中途半端な覗き方ですから、こりゃ神様のかけ引きやろうと思うから、ここ有り難く頂かなんじゃろうと、だからそげなことは、右やら左やら、どうでもよいという気にならんのち、私は申しましたがね。
もうこりゃもう、段々高度に信心が進んでいくと、皆がいちおはそこに、あの~行き詰まることがあるんですよ、やっぱ。で、そういう時にです、昨日の御理解じゃないけれども、ままよ、はぁ~神様はこういうおかげを下さろうと思いござるばいなぁ、といったようなね、神様の心を先取りするような考え方は、止めないけんよと、ね、信心が高度になってくると、そう神様の、ところが神様は、必ず人間の思う通りには動きなさらんですね、この神様は不思議な神様ですばい、はい。
人間がこう思って、あ~思っとると反対の方へ反対の方へ(?)なさるです。まぁそういうところを、この神様がひにくだなぁといったような表現もあるくらいですがね、ですから、もうそれから先は、もう任せとかなきゃ、右であろうが左であろうが。ね、そういう信心でないと、信心がいよいよ楽しい、有り難いといったような答えは出てこないです、きつなってくるです。はい・・・ね、
まぁ今日は、え~81節をね、まぁ今日のような表現で聞いて頂いたんですが、ね。必ずしも難しいことばっかりじゃなくてです、それこそ信心のない人でも、ほっとこう、耳を傾けるようなお話しも、合楽理念の内容の中にはあるのです。まぁそういう信心を、だから本当に自分が、あ~実験実証して、体験してね、確信をもっていかんと、また話しもでけないことになる。そりゃ~そんなことお粗末じゃないですよ、ご無礼じゃないですよと、ね。
最近ここではあの~、非常に何か、三角関係やら、四角関係のお届けが多いんです。ね、だからその合楽理念をもって説きますと、見事にそれが解決していくですね、ですからあの~これはとにかく、そげな粗末なことをして、ご無礼なことをしてというたら、もうそれこそ身の縮むような思いがしますけれどもね、そういう中に神様の、いわば神愛を分からせ、悟らして、そしてこれからの生き方の上には、いよいよ教えに基いた、いうならば教えに忠実であると、もちろん自分にも忠実であって良いけれども、教えにも忠実というバランスのとれた、生き方を身に付けていくことができると思うんですよね。どうぞ。